【CMLL】いざ!プロの世界へ!2,000円から始まったドリームロードと東京ドーム事件~不屈のプロレス人生(2)~

Hola Amigos!るちゃ男です。

前回の記事では、奥村選手がプロレス禁止の家庭に育ちながらも、熱に浮かされるようにして夢への一歩を踏み出した少年時代のエピソードをお届けしました。「好き」という純粋な気持ちが、片道1時間40分の道程すら厭わない執念へと変わっていく姿に、オクムラ選手ファンになられた方もいたのではないでしょうか。

さて、今回はいよいよ「プロレスラー・奥村茂雄」の本格的な戦いが始まります! デビュー戦で手にした驚きの給料袋の中身から、超満員の東京ドームで浴びた予想外の「洗礼」、そして名門・全日本プロレスの道場で待ち受けていた、文字通り桁違いのハードトレーニングまで。後の「OKUMURA」へと繋がる、泥臭くも熱い修行時代を語っています。オクムラ選手インタビュー2回目です。今回もよろしくお願いします。

文章:るちゃ男yAI記者GEMINI 

ESTO ES LUCHA: EL PODCAST OFICIAL DEL CMLL – OKUMURA
動画元:VideosOficialesCMLL

日本インディーの現実と若手時代の下積み

アレクシス:日本のプロレス界、特に若手レスラーの環境についてですが、大手団体だけでなくインディー団体も多く存在しますよね。若いレスラーたちは、リング設営なども含めて厳しい下積みを経験すると聞きます。実際のところ、日本の若手レスラーの現実はどのようなものなのでしょうか?

奥村:そうですね。大きな団体――新日本全日本ノアなどは、若手がリングを組み立てたり撤収したりする体制が整っています。でも中小団体になると、選手自身がリングを運び、組み立てて、片付けまでやることも珍しくありません。
僕の若い頃は、リング設営よりもスター選手のバッグを運ぶ役割が中心でした。3年以上、ずっとマレタ(バッグ)を運び背中を拭き衣装を洗い、身の回りの世話をしていました。

正直、リングを組み立てている若い選手や先輩を見て、
自分もああいうことをやりたいな」と羨ましく思ったこともありました。でも、日本にはそういう“順番”や“習慣”があって、それも一つの文化だと思います。

メキシコルチャドールへの憧れが生んだ夢

アレクシス:オクムラ選手は、幼い頃からメキシコのルチャドールに強い影響を受けていたと伺いました。どんな選手たちが印象に残っていますか?

奥村:小学生の頃、母が金曜日の新日本プロレス中継を見せてくれて、そこに登場していたメキシコ人レスラーたちをずっと見ていました。ビジャノスペロ・アグアヨフィッシュマンエンリケ・ベラベビーフェイスカネック……本当にたくさんいます。

特に印象的だったのは、リスマルクです。全日本プロレスに参戦していた姿をテレビで見て、「こんなレスラーになりたい」と強く思いました。実際に会場で観ることは叶いませんでしたが、その憧れはずっと心に残っています。

伝説のルチャドール:リスマルク(Lizmark)
「青い天才」と呼ばれた圧倒的センス
ホテルマンとして働きながら、正体を隠すためにマスクを被ってデビューしたという異色の経歴の持ち主。戦艦ビスマルクにちなんだ「リスマルク」の名でリングに上がり、その端正な肉体と天才的な身のこなしで瞬く間にスターへと登り詰めました。
前人未到の「NWA3階級制覇」
華麗な空中殺法だけでなく、実力も超一流。世界的に権威のあるNWA王座において、ウェルター級、ミドル級、ライトヘビー級の3階級すべてで王者になるという歴史的快挙を成し遂げました。
永遠の殿堂入り
2001年には世界のプロレス殿堂(Hall of Fame)入り。力強さと美しさを兼ね備えた彼のスタイルは、今もなお世界中のレスラーからリスペクトされ続けています。

1994年12月31日 ― プロデビューの瞬間

アレクシス:いよいよプロデビューのお話です。1994年12月31日、ついにレスラーとしてデビューを果たしましたね。その知らせを聞いた時の気持ちは覚えていますか?

奥村:もちろん覚えています。プロレスラーになりたい気持ちはありましたが、「本当にプロレスだけで生活できる」とは思っていませんでした。

最初の試合のギャラは2,000円でした。
その後、5,000円、10,000円、20,000円……と少しずつ上がっていきましたが、最初は「お金」というより、
「リングに立てた」こと自体が嬉しかったですね。

東京プロレスとの契約 ― 運命を変えた転機

アレクシス:キャリアの初期に、東京プロレスと契約を結ぶことになります。この出来事は、オクムラ選手にとって大きな転機だったのでは?

奥村:はい。東京プロレスは今はもう存在しませんが、僕にとっては本当に大きなチャンスでした。
そこでグレート・カブキさんと対戦する機会をもらい、彼は僕の2人目の師匠のような存在になりました。そして団体から1年契約を提示されたとき、
自分がプロレスラーとして認められた」と感じて、すごく嬉しかったのを覚えています。

東京プロレスにはメキシコ人レスラーも多く参戦していて、メフィストなどとも交流がありました。
子供の頃に憧れていた“メキシコとプロレス”が、現実の世界として目の前に現れた瞬間でした。

東京プロレス
1.豪華すぎる「ハッタリ」と話題作り
1994年、元大相撲の石川敬士(石川孝志)が設立。とにかく話題作りが派手でした。
3億円ベルト: 「宝石を散りばめた時価3億円(自称)」という豪華なタッグベルトを作成。
異次元対決: 1996年には「高田延彦 vs アブドーラ・ザ・ブッチャー」という、当時のファンが驚愕するドリームマッチを実現させました。
社長争奪戦: 石川と安生洋二が「勝ったほうが社長」というルールで試合をするなど、エンタメ色の強い展開も特徴でした。
2.前代未聞の「旗揚げ前解散」事件
この団体の歴史で最も有名なのが、1996年末に起きた「FFF(トリプルエフ)」構想の失敗です。
・多くのインディー団体を統合しようと巨大組織「FFF」をブチ上げましたが、旗揚げ戦を行う前に資金難で解散
・これに反発・残留した石川らが、軍団名を「新東京プロレス石川一家」として再出発することになりました。
3.短くも濃い終焉
石川一家」となってからはI.W.A.JAPANなどとの抗争を展開しましたが、勢いは長く続かず、1998年にエース石川の引退とともに解散しました。

レスラーノート

フリーとしての挑戦と東京ドームへの道

アレクシス:東京プロレスで第一歩を踏み出し、先ほどお話しされたような重要なシングルマッチを経て成長された後、全日本プロレスへのチャンスが訪れましたね 。

奥村:東京プロレスにはオーナーがいたのですが、そのオーナーが団体を畳んでしまいました 。1996年末頃に契約が終了し、所属レスラーはバラバラになりました 。私は石川さんの作ったグループに加わり、4人ほどで様々な団体で働き始めました

師匠・石川さんのグループと共に、天龍(源一郎)さんの団体(WAR)に参戦したり、新日本プロレスや他の団体、全日本プロレスの興行にもいくつか出させていただく機会がありました。カナダにも遠征し、海外レスラーと戦う経験も積みました。
そして1998年、雑誌『GONG』を通じて全日本プロレス参戦のオファーを受けることになります。

全日本プロレスの道場 ― “本物”の洗礼

アレクシス全日本プロレスの道場に入ったとき、どんな印象を受けましたか?

奥村1998年2月に全日本プロレスに参戦しましたが、その前に横浜にあった全日本の道場に行くように指示されました 。道場に行くと当時、団体のエースの一人だった小橋建太さんがおられました 。

私はその頃すでにチャンピオンベルトを持っていましたし、様々な団体でトップスターたちと戦っていましたが、全日本の道場では、まず800回の腕立て伏せをさせられて驚きました 。さらに500回の腹筋や、数えきれないほどのスクワット……非常に過酷なトレーニングでした 。

おそらく全日本プロレス側は、この団体に上がるのは簡単ではないということを示したかったのだと思います 。私はそれを理解しました 。他では常に試合をしていましたが、ここは勝手が違うのだと 。それでも必死に練習を続け、全日本プロレスに参戦するチャンスを掴みました 。ジャイアント馬場さん、そして奥様の馬場元子さんには、今でも非常に感謝しています 。このお二人には感謝してもしきれません 。

東京ドーム、全日本分裂、そして――激動の先に待っていた「メキシコへ」

アレクシス:奥村さんのキャリアにおいて、これらは非常に重要な出来事です。野球にとっても印象的な舞台ですが、プロレスにとってはさらに象徴的な「東京ドーム」という舞台についても触れられました。東京ドームといえば、つい最近も新日本プロレスの年始の興行で、棚橋選手の(社長就任・引退に向けた)試合に4万5000人以上の観客が集まりました。世界でも最高峰の舞台の一つであるあの場所で戦ったことは、あなたにとって何を意味しますか?

奥村:最初に(東京ドームの大会に)参加したのは、試合をしたわけではなく、私が所属していた石川さんのグループが他団体との抗争に関わった時でした 。4人のレスラーで新日本プロレスの選手に対抗して乗り込んだのですが、試合はせず介入(乱入)だけ行いました

それは1997年のことで、会場を去る時のファンの反応は今とは全く違っていました 。私たちが車で東京ドームを出ようとすると、車に卵を投げつけられたんです 。私たちが興行に介入したことが、当時のファンにはそれほど大きなショックだったのでしょう 。他団体のレスラーを受け入れないという空気がありました 。その後、1998年の東京ドーム大会で初めて実際に試合として出場しましたが、それは素晴らしい経験で、まさか自分がそんな舞台に立てるとは思ってもみませんでした 。

全日本プロレス──変わる時代と新たな出発

アレクシス:2000年、全日本プロレスが大きな変革を迎えました。全日本に残る側プロレスリング・ノアに分裂という道を歩んだこの団体の中で、オクムラ選手はどのような存在として迎えられたのでしょうか?

奥村2000年、この団体が二つの方向性に分かれるという大きな変化の時期に、馬場元子さんから直接連絡をいただきました。当時フリーとして活動していた僕に対して、元子さんは電話でこう言いました。

「奥村くん、元気? 元子です。ノアとはもう話したの?」と聞かれ

「いいえ、元子さん、ノアとはまだなにも話していません」と答えました 。

すると、「また全日本に参加してくれない?」と言われました。この言葉は、僕にとって本当に大きな意味がありました。東京プロレスの解散後、フリーの立場で戦っていた僕にとって、“信頼されている”という実感が心の奥深くに響いた瞬間でもありました。

おわりに 

今回のエピソードを読み終えて心に残るのは、奥村選手と「全日本プロレス」という団体の間に流れる、打算を超えた深い縁です。

2000年、プロレス界を揺るがした全日本の分裂。多くの選手が新団体ノアへと移籍し、残された側が苦境に立たされる中、フリーだった奥村選手のもとに届いたのは馬場元子さんからの直接の電話でした。「また全日本に参加してくれない?」というその一言は、単なる戦力としての誘い以上に、奥村選手のこれまでの姿勢を認める信頼の証だったのではないでしょうか。

次回、正式な所属選手として「王道」の看板を背負い、武藤敬司氏が社長を務める新体制へと移行しますが、奥村選手の中にある思いが芽生えます。その思いとは?そして舞台はルチャリブレの聖地メキシコへと移ります。次回もお楽しみに。